いろんなことを

一度に両立できるほど、私は器用な人間じゃない。
椅子は足が3つならばがたつかないで立てる。
4つあると、うまく高さを調節しないとがたがたいってしまう。
私もそう。
3つまでならなんとかなっても、4つのことをいっぺんにやろうとしても無理に決まってる。
じゃあいったい、どのひとつをなくせばいいの?
でもね、わかってるんだ。
どれかひとつをなくして3つにしても、
またどうしようもなくなってどれかをやめないといけなくなるってこと。
全部やらないといけないんだ。
だってね。
どうして動物の足は4本なのかな。
3つじゃ駄目なのかな。

日記とめすぎ

いそがしいんだって、ほんとだよ。
そんな疑いの目でみないでよ。
今週は火曜にふたつ、木曜にひとつ、金曜にひとつ発表があるんだよ。
ほんとだよ、うそじゃないよ。
信じてよ。
・・・
久々に遠くのほうのバイトに行ってきた。
そしてこの仕事を始めたとき最初に思ったことを久しぶりに感じた。
彼女たちにとっては、バイトがあるのではなくて、休みがあるのだということを。
今日はバイトの日、ではなくて、今日は休みの日、ということ。
もうさぼりません、仕事します。
ごめんなさい。

ぼぉどりやぁる

3時間目の映画の授業に、新潟大学で教えている北野圭介さんというかたがいらっしゃって講義。テーマはメロドラマと映画とのかかわり。
とっぱなからデヴィッド・ハーヴェイ新帝国主義」だとか、ロバート・ケーガンネオコンの論理』だとか、田中明彦『新しい中世』の話なんかをしたりしてどまんなかの感ありあり。
いわく、現状認識のとして中世化しているのではなか、というお話。しかし私自身はその意見には反対で、「ヨーロッパにおいて」「国境がなくなりつつあること」のみを持ち上げて中世といっている感があり、それは多国籍企業であるとか様々なファクターを無視しているので、あまり有効な議論ではないと考えています。だからといってネグリ・ハートのいうような帝国/帝国の構成者としてのマルチチュードという概念も非常に「ヨーロッパ的」「エリート的」発想だと思うので、そこまで肯定はしていません。
それはともかくとして、授業であったお話は、ここ10年くらいの映画で、中世を舞台にしたものが多い、という指摘。グラディエーターとか、恋に落ちたシェイクスピアとか。
そもそもメロドラマとは近代において、平民が楽しんだもの、というのが最初の定義であり、男女の恋物語になったのはずっとあとになってからだそうです。それまであったものは、ベンヤミンがいうような悲劇(トラウアーシュピール)だそうです。近代になって悲劇が不可能になったところに見出されたのがメロドラマ、ということです。
しかし、例えば「恋に落ちたシェイクスピア」において、またあるいは中世に限らなくても「イングリッシュ・ペイシェント」といったラブ・ストーリーにおいて想定されている受け手は、ある程度の教養をもったプチ・エリート(北野先生はこのような言葉はつかっていませんでしたが)、勝ち組、中間層より上の人たちであるということです。これは『帝国』におけるマルチチュードとパラレルな関係にあるかもしれません。
悲劇が中世的、メロドラマが近代的という分け方をしたときに、メロドラマは男女の関係の偶然性、あたかも神の意志とでも呼ぶような必然性を欠いた展開をもつものだ、ということです。それに対して悲劇は論理的、必然的な因果関係によって描けるものということだそうです。うーむ。そうなのかなぁ。
それから妄想の問題。新しいアメリカ映画では、回想ではなくて妄想と呼ぶべきフラッシュ・バックシーンが多用されているという指摘。例えばフォレスト・ガンプアメリカン・ビューティー。これは、近代的な単線的な歴史観へのアンチとして捉えることも可能かと思います。そこまで踏み込んだお話はなかったのですが。
そのあとに先生がコメントされたのですが、ポストモダニズムを、「近代への距離、近代への自覚」というように捉えている点がひっかかりました。自覚という言葉をあちこちで最近見かけますが、近代においても、別の形での「自覚」が、別の方向からの「自覚」があったはずで、単に近代を近代に対して自覚的でない時代、ポストモダンをそれに自覚的な時代、というふうにわけることには意味がないというように私は考えます。
以上支離滅裂な授業でしたとさ。

Ⅰ・K

「私なんて、そんなサブカルに関する知識もそんなにないし、なんかのコレクターなわけでもないし、私なんかをおたくっていったら、本物のおたくの方がたに失礼ですよ。」
というステイタス自体がおたく的らしい。うわあああん。
・・・
そんなに大塚英志東浩紀が好きですか?
この二人がサブカルチャーに与えた影響はよく分かるし、それを批判的に読んでいくことでいろんな分析が生まれてきているのもよく分かる。でも、もっとほかに読むべきものあるんじゃないかなと思う今日この頃。
それでも、哲学とおたくカルチャーを結びつけるやり方が、私は結構好き。って言ったらそれをサブカルオタっていうんだよと言われた。うーむ。八方塞り。

ルノアール

批評は手紙だと、あのひとは言いました。
こんなところでハスミをひいてはいけないと、あのひとはいいました。
ハスミがそういわざるを得なかった痛々しさを、わかっていないだろう、といわれました。
ごもっともです。

4げんはお休みでした

NANA10巻を一気に読破。大人買い大人買い大人買い
なかなか泣けるお話ですよ。
でもところどころ作者がえらそーに人生相談めいたことをしているのがむかついたり。
やっぱり恋人は、頼ってはいけません。
頼るなら友達を頼りましょう。でもこんな老成した友達はいやぁ。
一番好きなキャラだれかな。
多分奈々。ああいう節操の無さって好き。関係性関係性。
矢沢の漫画を語るのに一番有効な言葉は「おしゃれ」だと思います。おしゃれって一番オタクから遠い言葉のような。
おしゃれって何だろうって難しくて、流行に乗ってればいいってもんでもないし、個性的であればいいってもんでもない。
・・・
本日のY教授の名言。
マックス・ヴェーバーは相関社会科学ですよ。」

とある少女Aの母親の証言

ええ、ほんとはね、こんなはずじゃなかったんですよ。こんなつもりで東京に出したんじゃないんですよ。
そりゃもう大学生ですからね、おしゃれもしたいし、男の人と付き合ったりもしたいじゃないですか。
だからね、私はいったんですよ。
入るならば、テニサーかオケにしなさいって。
そのほうがきっとイケメンでおしゃれで、素敵なお店を知っている男の子とお知り合いになれるでしょう。
たとえ今興味が無くてしょうもない男だなーって思っても、どこでご縁があるとも限らないでしょう。
でもあの子は・・・
昔から私のいうことなんて聞きもしないで。
なんでしたっけ?ラジオ?秋葉原
そんなところに行くような子じゃなかったのに。。
やっぱり、サークルとか人間関係は大切ですよ。
セックスもしちゃいけない、なんて私は言うつもりないし。
むしろ一番純粋にセックスを楽しめる時期なんじゃないかと思いますよ、一種のスポーツとしてとか、コミュニケーションの手段としてとか。
で付き合うからにはやっぱり別れも経験して欲しいなんて思ってたりしたわけですよ。
それなのに。。あぁうちの娘は。。。
母は涙のあまりそれ以降言葉をつむげなくなる。
・・・
判決
少女Aは、これから先最低4年は、オタクの世界で生きることを命ず。